「世界よ、お前はどこに行った?」深川雅文 (川崎市市民ミュージアム学芸員)

 風景写真の傑作というと、前景から後景に向けて空間が遥かに広がっていく解放感とその光景の迫真性によって強められる存在感が魅力であった。たとえば、19世紀後半、1870年代に、ティモシー・オサリバンが西部開拓調査の途上で大型カメラで捉えたグランドキャニオンの絶景しかり、そして20世紀のアンセル・アダムスによるヨセミテの風景...写真家が、その作品を見る人たちと一緒に、遠近感そして写し取られた場所の意味に関してゆるぎない共通感覚を持ち得た「幸福な時代」と見ることができるかもしれない。

 逆に、現代の風景写真では、20世紀の最後の10年間に起こった、ベルリンの壁の崩壊に始まるかつての歴史観の崩壊、デジタルテクノロジーによって結ばれるグルーバルコミュニティーの進展などを経て、歴史と場所の意味の相対化が進んだ。また、デジタルネットワークによる遠近感の変化とともに規範となりうる距離感やスケール感も流動化していった。

 21世紀に入って、その傾向に拍車がかかった。2005年に登場したグーグル・アースのサービスは、遠近感の変化の里程標のひとつとなったかもしれない。ネットに繋がったひとなら誰でも、地球外の自転の軌道上に仮想の視点をもって地球上の地形や地勢、そしてさまざまな場所を閲覧できることになったからである。身体から離れた絶対的な視点の位置を個々の人間が獲得することで、元来、私たちの身の丈にあった距離感とスケール感はさらに不安定なものになりかつて写真の風景を支えていたあの確実性は取り戻せそうにない。ただし、その視点はシステム化されたものであり万人にとって平等なのっぺりとしたものである。世界を隈無く見尽くす手段を手に入れた瞬間、世界はすっとどこかにすり抜けていってしまったようだ。世界よ、お前はどこに行ったのか?

 おそらく、こうした状況だからこそ、風景を切り出す写真家が必要になってくる。伝統的な遠近感が失われてしまったのであれば、新たにそれを創出すればいいのではないか。そうした志向を見せる写真の仕事が国際的に現れてきている。風景のミニチュア化を発想したイタリア人写真家のオリーボ・バルビエリ(Olivo Barbieri)はそうした流れの先陣を切った。近年ではイギリス人写真家のピーター・フレイザー(Peter Fraser)が、身近にある些細な事物に独自のスケール感を被せて提示する優れた仕事を発表している。そしてこの湊雅博の仕事を見よ。そこはどこなのか、広大な光景なのかミニマルな光景なのか、見る者のスケール感と距離感を揺さぶり、その視点と視線のありかたの不安定さを逆に照射する。湊の「風景写真」はその起点となって作用してくる。見ることによって、置かれた風景ではなく、風景を「置く」まなざしのあり方自体が問いかけられてくる。逃げ去った「世界」への接触を求めての旅が始まる。

2008 [環-fusion]に寄せて〜